何かの形で解決をつけることができなかった「思い」というのは、後々までずっと影響を及ぼし、時として妙な形で蘇って来るものなのだということに、今朝改めて気がついた。
今朝方見た夢の中に、ハナコさんが出てきた。
その夢の「設定」がどういうものだったのかは、何となくもやもやとしていてハッキリ思い出せない。
が、その夢の中のハナコさんの姿はとにかく鮮明だった。
自分の脳味噌の一体どこに、こんな精密な動画データがしまい込まれていたのだろうと思うくらいに。
しかも「単なるデータ」とは思えないくらい生き生きとし、臨在感があった。
そう、ハナコさんは確かによくあのブラウスを着て、あんな風に立っていた。
夢の中のぼくは、久しぶりにハナコさんに会ってひどくうれしがり、あの頃と同じように舞い上がっていた。
さんざん舞い上がった挙げ句、その状態でハナコさんの前に居ることが少し居心地悪くすらあったのだが、その感覚こそまさにあの当時のぼくを拘束したものだった。
目が覚めてからしばらく、何だか息苦しかった。夢の中で感じた情動の激しさに、正直、我ながら驚いた。
普段全然意識することのない感情の「罠」が、自分の内側にこんな形で潜んでいることに今回初めて気付いた。
あの当時ぼくは、抱いていた感情を、結局いかなる形の解決にも導こうとしなかった。
その結果であるところの現在の状況について、自分では充分に納得のいくものであると感じている。
では、もしあの当時何かを求めて前に進んでいたとしたらどうだったろう?
これは別に悔し紛れではなくいうのだが、僅かな可能性としてあり得た最良?のパターンを辿ったとしても、おそらくはそう長くないスパンのうちに、ぼくはそこから別の場所へ移動(もしくは逃避)していくことになっただろうと思う。
激しく「あこがれ」つつも、ハナコさんを前にすると感じていた「居心地の悪さ」は、おそらくぼくの基本性向に根ざすものだろうから、あの判断そのものは間違いではなかった筈。
いや、というか普通に考えれば、砕かれることで感情に終止符を打つという、最も妥当な解決がもたらされたであろうから、そのチャンスを逃したのはやはり失策だったのだろうか?
結局、あの時の自分の対応は、今のぼくの基準からみてもある意味では正しかったのだ。あの時もぼくは今と同じ程度に賢かったと言って良いだろうし、さもなきゃ、今もあの当時と同じくらいアホなのだろう。
だが、あれ以来「未解決の思い」を作り出し、それに囚われることだけは止めようと、とにかく心に決めている。
だから、心が動いたら迷わず進もうと思ってきた。そして、これまでのところ、その結果は吉と出ている。
その現在の視点に立ち、ことの因果関係を逆転させて評するとすれば、あのとき立ち竦んだぼくの判断は、やはり誤りだったということになるのだな。
ハナコさんは、ぼくにとってこれまでの人生で一番大きな勉強をさせてくれた人なのかもしれない。