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2008年12月24日 (水)

『その日のまえに』

重松清『その日のまえに』を読んだ。

いつもながらのマツキヨ。
どれもみな、しんみりと心にしみる美しいお話だった。
しかも、「癌=不治の病」と「死」をめぐる、いくつかのストーリーを寄せただけの、連関性のないオムニバスかと思いきや、読み進むうちにそれぞれの登場人物たちがあちらこちらで交差する連作小説になっていく。

すばらしいストーリテラー。
手練というべき。

なのだが。

この人の作品を既に結構いろいろ読んできた今となってみれば、この小説はちょっと過剰に「ベタ」な気もちょっとした。
特にやや興ざめなのは、映画「ゴースト」系の降臨者がたびたび現れること。
この手法が素晴らしかったのは、『流星ワゴン』だが、あまり多用するのはちょっとどうかと思う。
駅前のギター弾きといい、「駅長くん」といい、それが登場人物たちの目の前に、特別な啓示として現れることの、ドラマとしての意味や美しさは、よくわかる。
でも、ちょっと、あざとい。
ぼくなどにとっては、そんなものが現れてしまっては逆に、そこにある切実な哀しさを、自分の身に引き当てにくくなる。

あざとい、と言えば、一見無関係なストーリー群を一つながりのものにまとめるあのやり方も、ちょっと化粧が濃過ぎな感がある。
「別に、わざわざそうせんでも・・・」と思う。
一つ一つのお話として完結させておいて、余韻として残す。
「その後」は読者個々の思いに任せる。
で良かったんではないかと。

良いお話なのは間違いないのだが、マツキヨ慣れしてしまったためなのか、そんなこんなで、なんとなく無心に酔いしれることのできない一冊だった。

ところで。
「和美」から夫への、たった一行だけの「手紙」の言葉。
あのネタをぼくは、どこか(何か)別のところで読むか視るかしてる気がして仕方がない。一体何だろう?
ぼく自身の傾向と、あの一言が含むニュアンスからすると、阿刀田高あたりの短編あたりに出てきたんではないかという気がするんだが・・・。

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